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ラングリッツ ホースハイド バッグ

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ラングリッツのホースハイドのバッグ
フルパテッドのカスタムです。

自分の理想のバッグです、
まー、僕がオーダーしたんじゃないんですけど、他人が作ったものなんですけど。

けど自分にとって理想だったという感じで、
わけわからん。

なんかこれ
バイクのシートに見えませんか?
バイクにつけて座っても違和感無いかと思います。


レザーの質感は牛皮より艶があって高級感があるかなと思います。

もうオーダーできなくなってしまったのは残念ですよね。


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ジッパーはこちらの方のが使いやすいです、スタンダードとは逆です。

中にホースハイドタグ。
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by terasakaya | 2014-11-29 21:25 | Comments(0)

細川紙 ユネスコ世界遺産 正式決定!

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どーも、二階堂のCMが大好きな錦絵の寺坂屋です。

さて!
この度27日に埼玉県の細川紙が正式にユネスコ世界遺産に登録されました!

ずっと使ってるんで本当に嬉しいです。

ってかこの紙しか使わないですけど、

高級な和紙です、もうちょい安くしてね。無理か、
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ついでにウチも世界遺産にしてくれませんかね?
寂れ廃って誰もやっちゃいない事を
画材も技法も250年前と同じ事やってるんですけど、


そこんとこ頼みますよ、ユネスコの人!


by terasakaya | 2014-11-29 21:06 | Comments(0)

憂世絵

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たった今思い付きましたが、自分の描く絵は浮世絵じゃなく憂世絵としようと思い付きました。
新しいでしょう
読みは同じです。



by terasakaya | 2014-11-26 02:24 | Comments(0)

サイドカー ブリキのオモチャ

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古いサイドカーのオモチャです、
昔の中国製ってのが珍しいです。


サイドカーって実は乗るの難しいんですよね、アクセル開けるとサイドカー側に傾いて、ブレーキ掛けるとバイク側に傾いちゃうんで常にカウンターを当ててバランス取りながら走らないとなんで大変なんです。
慣れないとサイドカーは危険ですね。
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あとなんで万歳してるんですかね?
、、あ!
つまりお手上げって事か!

君たちには責任感をキチンと持って政治屋やってもらいたいと思います。

今度の選挙は投票率かなり低いでしょうね。

万歳はここでやって下さい。

by terasakaya | 2014-11-21 22:05 | Comments(0)

らん

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カマボコとサーモンが大好き

仙台の人!
うちの猫カマボコが大好きですよ!

ノルウェーの人!
うちの猫サーモンが大好きですよ!


待ってるからね。
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by terasakaya | 2014-11-19 20:57 | Comments(0)

日常のMY wescoブーツ

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バイクで金沢へ行った時にぱちり。
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、、、

おい外人、自慢のブーツにバーーッド!とはどういう了見だ。

ミッドソールギリギリまで履き潰して貧乏クサイからか?

オレのガラスのピュアハートは傷付いたからな。



、、

そんな事よりホースハイドの限定ボスがでるそうですね!

かっこいいですよね、しかも最近人気の茶芯ですね、買えないですけど

あと、ジョンヘンリーが新しくなりましたが予想以上にかっこいいですね!

欲しいです。買えないですけど



あと、グリーンとかイエローとかの色も出して欲しいですね。買えないですけど

貧乏だから

by terasakaya | 2014-11-19 19:51 | Comments(0)

北斎 幽霊図

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どうも、お久しぶりです。
ツチノコ探しが忙しくて更新してませんでした。
草むらを探してますが、なかなか見つからないですね。

五年くらい前に模写してた絵が出てきました、意外と綺麗に模写出来てるかなと思います。

まだ途中のままほったらかしにしてました、また手が空いたら色を付けましょうかね。

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北斎翁の洒落の効いたアイデアが素晴らしいです。

最近妖怪ウォッチの影響もあって妖怪ブームみたいですね、
妖怪いいですよね、妖怪。



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地縛霊なら見たことあるんですがね、
普通にくっきり見えたんでまさか幽霊とは思いませんでしたよ。

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そんな非科学的なもん信じて無かったんで
まさかオレも見えるようになるとは、、
とショックで怖くて夜トイレに行けなくなりましたよ。しばらく


幽霊なんて弱い存在ですし
ま、どうって事ないですけどね。

けど未練を残してまだ現世を彷徨ってるのは
さぞ切ない思いなんでしょうね。

あと、古い物ばっか持ってるんで憑物神にも取り付かれないか心配なのよね。






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by terasakaya | 2014-11-17 09:27 | Comments(0)

スチパンな巨大歯車

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ちょっと史跡を調べに山奥へ来ましたら

そこでエライ古い歯車を見つけました。
これは珍しいですね。
戦前かな?
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動くかと思って押して見ましたがビクともしません、

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木が食い込んでますかんね。無理だわ
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カッコ良すぎ。
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水車なんでしょね。
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by terasakaya | 2014-11-09 19:54 | Comments(0)

朝海伊賀守重光松山源茂光日大居士 位牌

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ウチが代々拝み続けてきた位牌です。
これは比較的新しくて、裏面には
文政四年十月十三日
富山十七世 日達改之

なんて読むかわからんけども、、
書いてあります。
1821年ですね。



200年くらい前に僕の先祖の三郎右エ門が方丈様に作らせたものみたいです。
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見て気づきましが上の墓の
松山源光茂光は朝海伊賀守の戒名のようですね、つまり2人同じ日に亡くなってるという事ですね。
1559年8月18日に何があったのだろうか、、


役所の人が来るからここに調べた文献載せといて、後で説明しよっと。
みなさんは見る必要無いですよ。やたら長いんで

安土桃山時代に詳しい方おられますか?







朝見玄光【あさみ・げんこう】 生没年不詳




 伊勢守。秩父郡下日野沢(皆野町下日野沢)の土豪。根古屋城主(秩父郡横瀬村横瀬字根古谷)。後北条氏家臣。朝見伊賀守の父。もとは阿佐見姓を名乗っていたが、永禄12年(1569)甲州勢を早朝に発見した功により朝見に改姓した(「武州文書」)。


朝見慶延【あさみ・よしのぶ】 生没年不詳
 伊賀守。根古屋城主(秩父郡横瀬村横瀬字根古谷)。北条氏邦の臣。朝見伊勢守の子。



質問
(Question)
①群馬県に中世頃「セタノシロ」(勢多の城か)という城があったらしい。正式な城名と、現在の地名を知りたい。
②「セタノシロ」は後に小田原城攻め豊臣軍によって攻められたらしいが、誰によって攻められたか。
①朝見伊賀守の出自の城「セタノシロ」(勢多の城)について、その名称も含めた具体的な記述は確認できなかった。
関連する記述のある以下の資料を紹介した。

朝見氏と勢多から調査する。
『埼玉叢書 2 新訂増補』(稲村坦元編 柴田常恵編 国書刊行会 1970)
p351「鉢形北条分限録」に「一、同 上州勢田 千五百貫 侍大将 淺見伊賀」とあり。(「同」とは「本国」を指す)

《自館目録》を〈北条 & 分限〉で検索する。
『鉢形城どんな城だったのか 鉢形北條家臣分限録考』(大谷清一著 大谷清一 2007)
p151「「本国」は当人の生まれた国と郡名、次は禄高、次は役職、次は落城後の住所」とあり。
浅見伊賀については記述見つからず。

『日本城郭大系 5 埼玉・東京』(平井聖〔ほか〕編修 新人物往来社 1979)
p131〈根古屋城〉の項に、「北条氏邦の家臣朝見伊賀守が元亀三年(1572)まで根古屋城主であったが、その後、勢多の城に移ったため副将の渡辺監物が城主になったという説(『新編武蔵国風土記稿』)(後略)」との記述あり。

『埼玉苗字辞典 1 ア-オ』(茂木和平著 茂木和平 2004)
〈アザミ・アサミ〉の項に、以下の記述あり。
p192 浅海 秩父志に「土佐国造末流 八形城臣浅見伊賀守・大野弾正忠の如者」
p194 鉢形城士の浅見氏 鉢形分限帳に「本国上州勢田・浅見伊賀」。神流川合戦記に「天正十年六月、鉢形城方・戦奉行浅見伊賀守春長」。町田日記に「天正十八年、鉢形留守居浅見伊賀守あり」。風土記稿秩父郡横瀬村条に「根古屋城跡、浅見伊賀守在城せし遺跡なりと云」。鉢形古城記に「根古屋の城に浅見伊賀守・同左馬助父子也」。
p211 風土記稿下日野沢村条に「旧家者里正十左衛門・阿左美氏なり。先祖は鉢形北条氏邦に属し阿左美伊勢守玄光と云」
p212 上野国の新田氏流阿左美氏 新田郡阿左美村より起る。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「本国上野、阿左美、浅見共」と見ゆ。当郡は勢田郡とも称す。

北条氏邦と勢多から調査する。
『群馬県古城塁址の研究 上』(山崎一著 群馬県文化事業振興会 1971)
p172-206〈勢多郡の古城址〉あり。
p172「長井坂城」の項に、「北条勢はここを拠点として沼田攻撃の作戦をくり返し、天正十七年、豊臣秀吉の仲介によって沼田を手に入れ範直も沼田に移ったのである」とあり。地名は「勢多郡赤城村永井」。

『群馬県の歴史 県史 10』(西垣晴次〔ほか〕編 山川出版社 1997)
p141「天正十年になると(中略)真田昌幸は小田原北条氏に接触している。八崎城(勢多郡北橘村)の長尾氏を仲介にして、北条氏邦と交信しているのである。(「正村正観氏所蔵文書」)」とあり。

群馬県の城に関する資料を調査する。
『関東百城 改訂増補』(大多和晃紀著 有峰書店 1977)
p359-395〈群馬県の城址〉「セタノシロ」に関する記述なし。

『上野志料集成 1』(樋口千代松 今村勝一共編 臨川書店 1973)
p185-220「上州故城塁記」収録。勢多にあった城塁を中心として確認したが、北条氏邦の所領とされる城に関する記述なし。

『群馬の地名 下』(尾崎喜左雄著 上毛新聞社 1976)
p254「阿左美(あざみ)」の章あり。「セタノシロ」の家臣について記述なし。

『上州の城』(上毛新聞社 1975)
巻末「上州故城塁址総覧」に勢多郡もあり。

『群馬県史料集 別巻 1 古城誌篇』(群馬県文化事業振興会 1970)
勢多郡の城については記述もあるが、該当するものなし。

②①が確認できなかったため、城を攻めた人物についての記述は確認できなかった。関連する記述のある以下の資料を紹介した。
『日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬』(平井聖〔ほか〕編修 新人物往来社 1979)
p316「概説」中に「天正18年3月8日、前田利家の率いる上杉・真田・芦田らの北国勢は碓氷峠を越えて上野に入り、(中略)4月21日、大道寺正繁を降し、石倉・厩橋・箕輪・白井などを抜いた。」とあり。
勢多郡の城の解説を見ると、「膳城(ぜんじょう)140 勢多郡粕川村膳 [2004.12.05から前橋市粕川町膳] 出典:上州故城塁記、上野志、上野国志、関八州古戦録 天正18年、小田原の役に北国勢の嚮導となり、」とあり。
秩父重隆はこの源義賢に娘を嫁がせ、比企郡大蔵郷の大蔵館(比企郡嵐山町)に養君(やしないぎみ)として迎え入れて推戴している。これは重隆が、甥の畠山重能や、父である権守重綱の後妻との間で家督を巡って対立しており、また近隣の新田氏、藤姓足利氏とも利根川を挟んで抗争を繰り返していたことから、周囲の勢力に対抗するための手段であったと考えられる。義賢は秩父氏の武力を後ろ盾として北関東に勢力を拡大していた。これを苦々しく見ていたのが、相模国鎌倉を本拠にしていた源義朝の長男の義平(よしひら)であった。秩父重隆と対立していた重綱の後妻というのは、義平の乳母という関係もある。義朝が京都に復帰すると、その南関東の基盤を受け継いだ義平であったが、叔父である義賢と秩父重隆の勢力が上野・武蔵の武士団を糾合して南下する動きを見せたため、両勢力は武蔵国で衝突する事になる。畠山重能は源義朝・義平父子と結び、久寿2年(1155年)義平が義賢討伐の軍勢を催すと、重能もこれに加わって大蔵館を急襲した。このとき重能は、曽祖父の秩父十郎武綱が後三年の役で八幡太郎義家(よしいえ)より賜わった白旗を指物にしていたという。この大蔵合戦によって、畠山重能の叔父である秩父重隆と、その婿である源義賢は討ち果たされた。わずか15歳の義平は、この戦いで大いに武名をあげ、鎌倉悪源太と呼ばれるようになった。『源平盛衰記』によると、義平は義賢の次男で大蔵館から逃れた駒王丸を探し出して殺すよう畠山重能に厳命した。しかし、2歳の子供を殺害することに躊躇した重能は、駒王丸とその母を密かに斎藤別当実盛(さねもり)に託しており、駒王丸は乳母夫である信濃国木曾の中三権守こと中原三郎兼遠(かねとお)へ預けられた。この木曾へ逃れた駒王丸が、のちに木曾冠者源義仲(よしなか)に成長することになる。一方、畠山重能の次男が、源平合戦で大いに活躍し、知勇兼備の武将として「坂東武士の鑑」と称された畠山次郎重忠(しげただ)である。その後、根古屋城には武蔵七党の丹党横瀬氏が拠ったようである。丹三冠者経房(つねふさ)の次男である中村時親(ときちか)が横脛(よこはぎ)悪三郎と名乗った。横脛は横瀬ではないかともいわれている。その次男の時綱(ときつな)が秩父郡横瀬村に居住し、横瀬馬允と称して横瀬氏の祖となった。そのあとは九郎左近時久(ときひさ)と続いた。根古屋城の南西約800mに古御嶽城(横瀬町横瀬)がある。根古屋城の物見であったという。地元の伝承によれば、関東管領山内上杉憲政(のりまさ)の家臣である永田外記(げき)という者が居住していたと『新編武蔵風土記稿』に記されている。そして、河越夜戦のことだと考えられるが、天文年中(1532-55年)小田原北条氏との戦いに敗れた山内上杉憲政が、根古屋城に落ち延びて、しばらく在城したとある。永田外記は根古屋の中野という場所で討死したという。江戸中期に成立した『増補秩父風土記』の武光庄横瀬村の項にも、「持山、上杉伊豆守憲政鎌倉より敗入り、少しの間忍居して根古屋へ移る」とある。一説には、北条氏康(うじやす)の三男である乙千代こと氏邦(うじくに)が天神山城主の藤田重利(しげとし)の養子となって天神山城(長瀞町)に移る前の短期間、この根古屋城に在城したという。その後、北条氏の勢力が拡大すると、鉢形城(寄居町)の北条氏邦が、甲斐武田氏に備えて根古屋城を改修し、二子山の山頂に見張りの櫓を置いた。元亀3年(1572年)北条氏邦は、家臣の朝見伊賀守慶延(よしのぶ)に対して横瀬の地を宛い、副将として渡辺監物(けんもつ)を指し添えた

元亀3年3月5日の日付で、北条氏邦から朝見伊賀守宛として「上杉一揆名栗谷を通り都摩坂(妻坂峠)を越え、持山に立篭もりの由、右この抑えのため根古屋へ差遣わし候、これより東は小丸坂上、西は坂氷上、南は産川(生川)の水元、北は横瀬川を境に定め宛行の間知行為され候、並びに渡辺監物を指添え遣わし候」という文書が残っている。この朝見(あさみ)氏は、武蔵国児玉郡入浅見村から発祥した氏族で、武蔵七党のうち最大の武士団とされた児玉党に属した。児玉党の本宗家4代当主となる庄太夫家弘(いえひろ)の五男である庄五郎弘方(ひろかた)が、入浅見(浅見郷)に移住したことから始まり、庄氏から分派する。弘方の嫡子である阿佐美太郎右衛門尉実高(さねたか)の代になると、阿佐美氏は児玉郡だけではなく、上野国や越後国、加賀国にも所領を有するようになった。『吾妻鏡』によると、建久元年(1190年)源頼朝(よりとも)が上洛する際、先陣随兵の17番に阿佐美太郎の名が確認できる。児玉党の庄氏や四方田(よもだ)氏と共に将軍の上洛に従っていた。また、建久6年(1195年)将軍家の東大寺供養の際にも先陣随兵として淺見太郎(実高)の名が確認できる。正治2年(1200年)に左衛門尉に任ぜられ、建保4年(1216年)には右衛門尉に任ぜられた。実高は児玉郡の入浅見(児玉御庄)の他、上野国高山御庄、吾妻郡小中山村や越後国荏保・横曽根保、加賀国島田村などにも所領を有していた。これらの所領は、阿佐美実高の子息達が領有する事になったとされる。戦国時代になると、阿左美氏は鉢形城の北条氏邦の家臣として鉢形衆に属した。永禄11年(1568年)甲斐・相模・駿河の三国同盟が崩壊すると、甲斐武田氏との軍事的緊張が高まった。実際、永禄12年(1569年)から元亀2年(1571年)にかけて、秩父・児玉方面において武田軍による度重なる侵入を受けている。このとき、氏邦は武田軍の秩父侵攻に備えて、鷹谷砦(小鹿野町三山)に志賀坂峠を監視させ、女部田城(秩父市上吉田)に土坂峠を監視させ、高松城(皆野町下日野沢)に出牛峠を監視させていた。そして、日尾城(小鹿野町飯田)では三山谷の戦い、龍ヶ谷城(秩父市吉田久長)では石間谷の戦い、千馬山城(皆野町三沢)では三沢谷の戦いが繰り広げられたが、各城とも善戦しており落城することはなかった。このうち、永禄13年(1570年)の三山谷の戦いでは、山県三郎兵衛尉昌景(まさかげ)の率いる武田軍の先鋒部隊が日尾城を攻めているが、日尾城主で氏邦の筆頭家老である諏訪部(すわべ)遠江守定勝(さだかつ)は来客のもてなしのために泥酔しており、代わって奥方(妙喜尼)が武装のうえ城兵を指揮して防戦し、武田軍を追い払ったという。そして、これに反省した諏訪部定勝は酒を断ったという逸話が残っている。『武州文書』の「北条氏邦感状(写)」には、「甲州勢夜中土坂(ヲ)忍入阿熊(尓)屯(シ)候(ヲ)物見山(ヨリ)早朝見附之、即刻吉田之楯(江)駆付相固候条、感悦之至(ニ)候、依之苗字阿左美之字(ヲ)向後朝見之文字(ニ)書替誉(ヲ)可貽子孫(ニ)候、当座之為賞太刀一腰遣之候者也、仍如件」とある。これによれば、永禄12年(1569年)7月に女部田城(物見山)にいた阿左美伊勢守玄光(げんこう)は、武田信玄(しんげん)が派遣した武田氏の軍勢が、夜中に土坂峠から侵入して阿熊地区に駐屯しているところを早朝に発見して鉢形城や各支城に連絡、そして龍ヶ谷城に比定される吉田の盾に駆け付けて防御を固めたため、武田軍の攻撃に耐えることができたという。

このときの軍功により、阿左美玄光は北条氏邦から感状と太刀を与えられており、現在もこの感状が残されている。また、武田軍を朝見つけたことにより「朝見」姓も賜っており、阿左美から朝見に改めたという。永禄12年(1569年)10月には武田信玄がみずから出陣しており、武田軍本隊は直接鉢形城を目指して進軍し、別働隊は秩父郡内の鉢形城の支城攻撃をおこなった。その後、別働隊は武田軍本隊と合流して鉢形城を包囲したが落すことはできず、北条氏照(うじてる)が守る滝山城(東京都八王子市)に向かって南下している。朝見玄光の嫡子である伊賀守慶延は、元亀3年(1572年)上杉謙信(けんしん)の与党(上杉一揆)に対する備えとして、根古屋城の城代を任されて守りを固めている。一方、『新編武蔵国風土記稿』によると、朝見伊賀守は元亀3年(1572年)まで根古屋城主であったが、その後に勢多の城(場所不明)に移ったため、副将の渡辺監物が城主になったとある。『鉢形北条家臣分限録』にも「上州勢田千五百貫侍大将淺見伊賀」とある。「勢多の城」というのは、上野国勢多郡のどの城なのかは分からない。それ以降の朝見氏に関する記録としては、『神流川合戦記』に「天正十年六月、鉢形城方戦奉行浅見伊賀守春長」というものや、『町田日記』に「天正十八年、鉢形留守居浅見伊賀守あり」、『鉢形古城記』に「根古屋の城に浅見伊賀守・同左馬助父子也」とある。『関東古戦録』の天正18年(1590年)3月2日の記述にも、「根古屋の城には渡辺監物、浅見伊賀守、同左馬介父子是を守れり」とある。正丸峠を監視する根古屋城は、天神山城を経由して鉢形城へ連絡する横瀬狼煙の開始地点でもある。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役に際し、北条氏邦が籠る鉢形城は、前田利家(としいえ)を総大将とする上杉景勝(かげかつ)、真田昌幸(まさゆき)ら北国軍に攻撃されて開城する。このとき根古屋城も開城して、その後廃城となった。天正18年(1590年)北条氏が滅亡すると、朝見慶延の息子である朝見左馬助は帰農し、下日野沢の地に郷士として土着して、日野沢村の里正(名主)を務める。朝見氏は代々「十左衛門」を称しており、村人や代官役所から別格の扱いを受け、江戸時代を通じて里正として続いた。江戸幕府の代官より賜った古文書にも「秩父領日野沢郷士阿左美十左衛門殿」と記されている。この朝見左馬助が構えた阿左美氏館(秩父郡皆野町)は、江戸時代初期に荒川の支流の日野沢川に沿って南面する山腹の斜面に築かれた居館である。『新編武蔵風土記稿』の下日野沢村にある阿左美氏に関する記述によれば、17世紀末の元禄7年(1694年)に普請された旨が記されている。山腹を利用しているため形状は不規則であるが、周囲には二重・三重の石垣がよく残されており、現在も朝見氏の子孫が居住している。「食違い門」が3箇所に設けられていたが、その礎石も原位置のまま残され、石垣が幾重にも設けられていて、往時の姿を忍ばせている。根古屋城の大手口を少し下ると武甲山御嶽神社(横瀬町横瀬)があり、神社の鳥居の東側、城谷沢沿いに大小2つの「城谷沢の井」がある。この井戸は、根古屋城主の朝見慶延が、豊富な湧水と水質のよさに目をつけて地元の産業として絹布の生産を奨励し、その染色に用いた井戸と伝わる。秩父地方は耕作可能な面積が少なく、古くから多くの農家で養蚕が行われていた。特に絹織物が盛んで、農家の副業として絹織物が作られて江戸の問屋に送られた。丈夫な「根古屋絹」は、おもに裏地として用いられ、のちに絹の無地の裏地のことを「根古屋」と呼ぶようになった。(2005.03.21)
 加藤家は、鉢形城主北條氏邦の家老・加藤駿河守の子孫で、代々中郷の名主の家柄を伝え、四郎次・四郎左衛門・亀三郎・四郎治は、それぞれ、忍藩秩父領の割役名主(名字帯刀)をつとめている。
 当家所蔵の古文書は近世の地方文書、秩父領の割役名主「御用日記」の他、「北條氏直感状」、「横瀬郷年貢割付状」、「北條氏邦印判状」、などの数少ない中世文書が保存されている。
 「北條氏直感状」は、去る17日甲州北谷表で、敵一人を討ち捕ったことは高名なことであり、感悦した。今後も活躍するように、との文書である。
 「北條氏邦印判状写」は、元亀3年(1572)、朝見伊賀守に宛てた文書で、上杉一揆が名栗谷を通り、都摩坂(妻坂)を越え、持山に楯籠ったので、根古屋城へ派遣する。これより東は正丸峠、西は坂氷、南は生川沿い、北は横瀬山田村境の支配を許可する、というものである。
 なお、これらの複製は横瀬町歴史民俗資料館に展示してある。

歴 史 元亀3年(1572)氏邦は朝見伊賀守に対して横瀬の地を宛う。これは上杉勢の秩父侵攻に伴う備えからで、押さえとして根古屋城へ差し遣わすというものである。そして、朝見氏は東を小丸坂上、西は坂氷の上、南は産川沿い、北は山田村境を範囲とする地をあてがわれた。そして、もう1通の古文書はこれに譜代の家臣、渡辺監物を指し添えると記される。このほか、根古屋城には関東管領上杉憲政が天文年中に落ちのびてきてしばらく居城(『新編武蔵風土記稿』)ともつたえる。 加藤家は、鉢形城主北條氏邦の家老・加藤駿河守の子孫で、代々中郷の名主の家柄を伝え、四郎次・四郎左衛門・亀三郎・四郎治は、それぞれ、忍藩秩父領の割役名主(名字帯刀)をつとめている。
 当家所蔵の古文書は近世の地方文書、秩父領の割役名主「御用日記」の他、「北條氏直感状」、「横瀬郷年貢割付状」、「北條氏邦印判状」、などの数少ない中世文書が保存されている。
 

by terasakaya | 2014-11-08 01:22 | Comments(0)

厚木で買って来ました

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小物を買ってましたよ。

by terasakaya | 2014-11-08 00:07 | Comments(0)